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かつて私が働いていた『ハイジ』というパティスリーには、
「アルハンブラ」という大ヒット商品がある。
そもそも『ハイジ』に入社したいと思ったきっかけも、
この「アルハンブラ」が大好きだったからだ。
この上なく、ふわりと繊細なショコラスポンジの間に、
甘みを押さえたガナッシュをサンドしただけの、究極にシンプルな商品。
“どうしたら、こんなスポンジが焼けるのだろう?”
まだパティシエになったばかりの私は、
その柔らかく弾むような感触のスポンジに、すっかり魅了されていた。
当時『ハイジ』でも、「アルハンブラが焼けたら一人前」、
そんなふうに言われていたものだ。
そんなある日、ついにアルハンブラを作る機会がやって来た。
すでに、厨房でもあらゆるルセットを一通りこなしていた私は、
「スポンジの基本なんてみな同じ。きっと上手くできるだろう」と、タカをくくっていた。
ところが、である。極上のふわふわ感を伴って焼き上げられたはずのスポンジが、ガナッシュをサンドすると、その重みで“シュン”としぼんでしまったのだ。
おかげで作った生地は全て廃棄。大きなロスを生んでしまった。
原因は、生地の作り方と焼き方にあった。
他のものに比べて、かなりぶ厚く上げる配合だったため、
生地の混ぜ方や焼き方がかなり違うということに、気付かなかったのだ。
配合の数字からだけでは読み取れない、
素材の科学的な性質や、素材を生かすテクニックの重要性。
そんな基本的なことを、この生地を通してあらためて教えられたような気がした。
そんな苦い思い出もあり、独立してからも、私はこの菓子が忘れられないでいた。
まるくやさしい、ココアの香りのスポンジ。
淡雪のようにとろける、ミルキィなガナッシュ。
スイス菓子の魅力がぎっしりと凝縮されたこの商品を、私は何とかして、自分のオリジナルのアレンジで再現したいと考えていた。
そうしてできあがったのが、キャトリエンムショコラshinの商品「SOU」である。
センターのガナッシュは、エアインムース風に思いきりホイップして軽く。
まろやかなミルクチョコのスポンジも、
アルハンブラよりふんわり感をいっそうグレードアップさせて。
かつて、「サブレ・ブルトン」の味わいや食感を継承して、
日本であの銘菓「ハトサブレ」が生まれたように、
私も「アルハンブラ」のエッセンスを継承しつつ、
それを超える何かを創作したい。その一心で取り組んだ商品だ。
「アルハンブラ」の生みの親であり、
私にとってはパティシエ界の父も同然の前田昌宏 前ハイジ社長は、
2006年1月27日にふらりと三田の私の店に立ち寄られ、
この「SOU」の完成品を初めて口にされた。
社長とは、お互いの新作を食して批評しあうのが
日頃の楽しみとなっていたから、
今回もいつものごとく、酷評されるだろう、そう思っていた。
ところが、である。今回に限ってはいつも辛口なあの社長が
驚く程すんなりと、「旨いな」と褒めてくださったのだ。。
そしてさらに「この味を、ずっと大切にしろよ」。
そう噛み締めるように言ってくださったのだ。
3日後の1月30日、前田社長はまったくの突然に、この世を去ってしまわれた。
もう私の作ったお菓子を食べていただくこともできない…
そう思うと、今でも寂しさが胸に込み上げて来る。
しかし、亡くなる前に私の作った「SOU」を社長に試食していただけたことは、せめてもの心の救いとなっている。
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